金魚写真家の歴史

日本ではまだあまりマーケティングが普及していない2006年からSEO(検索エンジン対策)・リスティング広告(PPC広告)・LPO(ホームページ対策)・コピーライティングなど、あらゆるマーケティング施策を海外を含め最先端技術を取り入れ研究・実践。

写真マーケティング実践会は「ひとり経営者が楽しく人生を送るためにはどーすればいい?」を目的に、根性論ではなく、ビジネス・マーケティング・脳科学・思考法・仕事術・心理学などを学び成長し、理想のゴールを目指していくための情報コミュニティです。

プロフィール

どうも、いわさきです。

「なぜ、私がマーケティングを教えることをやっているのか?」

私の想いや考えに共感してくださる部分が少しでもあれば、

きっと、あなたにこのメディアが役に立てるはずだと思います。

ほとんどの人が勘違いしている事は、
「キレイな写真」であれば売上が上がるとか、
「高価で最新の機材」なら選ばれるようになるとか、
「プロに撮って貰えば大丈夫」と勘違いしていることが多いと思います。

また、「背景がボケていれば良い写真」というものあります。

確かにキレイな写真を提供する。
これは当たり前というか当然のことです。

ただ、経営者のあなたがもっと先に学ぶべきものがあるよという事です。

それが、あなたの情報で表現する事に特化したマーケティング。

人はどんな広告も告知も、まず一番はじめに目にするのが、写真、そしてテキスト(文章)ですよね。 まず一番初めに見てもらえる「写真」をもっと効果的に使ってもらいたい。

これが、私の「写真マーケティング」です。

コンセプト

写真の撮り方はわかっているけど、どうやって集客して売上を上げたらいいの?

仕事は忙しい。けど、忙しすぎて遊べない。

こんな悩みを抱えている人が、私の知人などを含めて本当に多いです。

そして、実践的でもない、苦痛な事を続けたりと、あまり効果的ではないことをやっていたりします。

そもそもマーケティングとは、

「効果的に活動するため」

なので、現場で売上に貢献することではなく、効率よくしていくための活動のことです。

例えば、ソーシャルネットワーク

キレイな写真を求めている人はそんなに多くないので、結局見てくれる人の共感が得られなければ意味はありません。

つまり共感される写真、感動する写真でなければ、誰も見向きもしません。

例えば、食事の風景。共感してくれる人は一緒にいた友人もしくは、そのお店の人にしか共感は得られません。

そして、さらに継続することが苦痛だと、投稿を続けることができたとしても、効果はありませんし、集客するどころか、効率よくはできません。

例えば、ホームページ

得意ではないから、得意な人にお願いする。

もちろんこれは、正解です。

でも制作者、デザイナー、ウェブプログラマーは、マーケターではありません。

カッコいい、キレイなページを作ってもらっても、結果はなかなか出ないですよね。

基本的には、「人を動かす本質的なマーケティング」をやっていないと、人は行動してくれません。

そして、人を動かしたら、次は何をするかが決まっていなければ、売上だって上がりません。

つまり「効率よく売上アップの活動が、自分の力で、できるようになる」が大事なんです。

その結果「コイツとはまったく合わねーな!」って思われる可能性だって、もちろんあるわけですが、まあそれはそれでいいでしょう。

今後の生き方を決定していた幼少期〜高校時代

私は東京都中央区で生まれ育った、いわゆる江戸っ子です。

中央区とは、銀座、築地、月島、もんじゃなどで知っている方もいると思います。

実家は、浅草橋で金魚屋を64年間個人商店をやっています。

貧乏でも、お金持ちでもなく、ごくごく一般的な商人の家庭で育ちました。

ただ、家の歴史は古く、

江戸時代から「店主となる人が好きな商売をする」というのが、我が家の伝統になっています。

初代は米蔵(三河屋)から始まり、蔵前という地名の始まりともされているそうです。

その後は反物屋、アクセサリー(鼈甲の髪飾り)、 小鳥・熱帯魚・金魚という流れで

現在は私で5代目になります。

私のひいお爺さん、岩崎伊三郎が浅草寺の五重塔を支援したり、

谷中の明王院檀家総代、総武線の浅草橋駅を誘致したとも言われています。

ただ、記録も残っていませんので、本当かどうか不明です。

私は将来、有名になりたいとか、金持ちになりたいとかそういう願望もないですし

「将来は経営者になる!」なんてことは、この頃はまったく考えていませんでした。

でも、この環境が「自分で選択をして縛られない生き方もある」ということが無意識に植え付けられていたのかもしれません。

子供の頃は成績もいたって平凡でしたが、
中学だけは友達と成績の順位を競うの楽しくて
勉強が楽しい時期があって、その頃は勉強しまくってました。

中学1年生で立候補した、生徒会副会長というのも、良い経験のひとつですね。

大勢の前で話すという事に特に苦手意識はありませんでした。(緊張はしますが) 

そして、高校は進学校に入ります。

楽しい学校生活と地獄の就職活動

高校卒業後、すぐに働きたいと思いましたが、

「まずは勉強をしろ」という父の寝言から、逃げるように専門学校へ進学しました。

同級生は国公立に行く人が多かったですけど、落ちこぼれの私は、そんな偏差値の高い学校には入れないので、専門学校です。

私が通っていた学校は別名「写真の学校」と言われていた専門学校です。

もともと、テレビっ子だった私は、番組中に流れる短編ドラマのようなCMが好きで

いつかは、CM制作のディレクターになりたいと思っていました。

写真だけではなく、映像編集(ノンリニア)を勉強をする事に決めました。

学校生活もいわゆる一般的な学生のイメージ通り、勉強は赤点や留年にはならないようにそこそこやる。そんな生活を送っていましたね。

私の映像作品は、東京の街を一歩進んではパチリ、また一歩進んではパチリと写真をパラパラ漫画のように(コマ撮り)して数分間の映像制作したのをきっかけから、写真に興味が沸き始めてきた時でもあります。

たったひとりで5分の映像を制作した、すごく貴重な学生生活を送ることができました。

卒業制作が終わると、地獄の就職活動です。

私の時代は、超就職氷河期。30社受けて1社も受からないのが当たり前の時代です。

前髪が眉毛にかかってた時点でもう絶対に採用されません。

おいおい、中学生かよっていうやつですね。

今の就活生みたいに細身のスーツもNGの時代です。

いやぁほんと、おぞましい時代ですよね・・・ 

私は映像系の学科だったので、本来なら映像関連の会社を選ぶのが普通です。

でも、映像系って何日も徹夜が続くイメージがありますよね。

ずっと室内でカタカタと編集。

実際、専門学校の先輩たちはみんなテレビ業界や映像制作会社に就職して、全く自宅に帰れない!なんていう愚痴をよく聞きました。

自分の時間を他人に決められるなんて意味不明

そう思っていた私は、徹夜や残業のない会社ばかり面接を受けていました。 

当然、就職活動は苦戦し、学校の就職課に呼びだされます。

就職課の職員に囲まれての面談です。

(職員・先生)「どういう会社を受けているの?」 

(私)「写真系です」 

(職員・先生)「なんで?」 

(私)「徹夜が嫌だからですね」 

(職員・先生)「そんなんで選んでいるから決まらないんだよ!」
「この会社に推薦を出すから面接に行ってきなさい!」 

これには、かなり驚きました。 

もちろん、学校側も本当に心から親身になって言ってくれたのかも知れません。 

でも、価値観は人それぞれ絶対に違うはずです。 

私が「助けてください」とお願いしたならともかく、 一方的に呼び出しておいて、価値観を押し付けられるのは本当に理解できませんでした。

「私の人生なんで、私の基準で決めます」

そう言うと先生に、さらに怒られました。

もう泣きそうです。 一歩間違えたら、厨二病ですね。 (ちなみにこの言葉はラジオの帝王、伊集院光さんが作ったそうです) とはいえ、 たしかに当時は、今ほど気軽に起業できる時代じゃなかったので、 就職先が決まらないのは今後の人生を考えてもリスクがあります。 

だから、学校側の言い分も理解はできます。 

ただ、この時にすごく強く実感しました。

「自分で生きていく力がない=人生の選択肢の制限」

なんだなと。 同時にすごく恐怖も感じました。

就職、そして個人事業へ

色々ありましたが、何とか写真系会社に就職が決まります。

有限会社ピアーズという制作会社ですね。 

就職といっても社員ではなくて、広告写真の師匠のアシスタントです。 

アシスタント生活も師弟関係という貴重で、素晴らしい経験ができました。 

何と言っても素晴らしいのが、
師匠の前を通れば、蹴られるし、怒鳴られる。
師匠よりも後に出社してはいけない。
師匠の言うことはすぐに実行すること。
師匠の行動を先読みしておくこと。 

なんとも香ばしい昭和な香りがする師匠です。 

別に蹴られようと、殴られようとなんとも思わない精神力のおかげで、逆にかなり鍛えられたと思います。 今でも師匠には感謝しています。

足を向けて寝れないですね。

この師匠には素晴らしい言葉をいただきました。

「お前に目に映っている赤は、誰もが見ている赤じゃねーよ!もっと赤を感じろ!」
「若い時は足で稼げ!経験を積んだら顔で稼げ!最後は頭で稼ぐんだ!」

こんな師弟関係の厳しさと、社会の厳しさを同時に学ぶことができた貴重な体験です。

ただ、大きな不満はないものの、さらに先のことを考えるとかなり恐怖でした。 

「これを本当に何十年も続けたいのか・・・?」
「10年後に他のことをしたくなったらどうするんだ?」 
就職活動の時のことが何回も頭によぎり、なんとなくヤバそうな雰囲気を感じつつも、明確な答えがないまま師匠の元で働いていました。

そうやって過ごしていたある日、思いもよらない出来事が起きます。

人生の転機

真夜中に「ブルルルル」と携帯電話が鳴りました。

会社の副社長からの電話でした。 

「なんだろう、なんか仕事かな?めんどくせーな」と思って電話をとったんですが、
その内容は私が予測していたものとまったく違うものでした。 

「今、社長亡くなった・・・」 

声が出ませんでした。

もちろん、仕事の話だと思っていた私には、衝撃的すぎます。 

衝撃が強すぎると「!?」 節句して何も言えなくなるんですね。人間て。 

真夜中の電話ではありましたが、 師匠のビジネスパートナーや兄弟子にも連絡、さらにクライアントにも連絡。 師匠は家族がいなかったので、私がひと通り知っている限りの人に連絡をしました。 

全て初めてのことで何が何だかわからないまま、行動をしていました。 

私は、葬儀が終わった後、誰もいない棺の横で泣きながら、大声で怒鳴りました。 

「ふざけるな!ついこの間、電話したじゃないか! まだまだ教えてもらうことはたくさんあるんだ!起きろ!おい!」 

今でも思い出すだけで、泣けてきます。 

葬儀が終わった次の日、事務所に戻ると日常に戻されます。 

もちろん私は社員ではなく、師匠の直弟子だったので、事実上のクビです。 

これからどうしよう… 精神的にもピーク状態に陥ります。

目の前が真っ暗というのはこうゆう事ですね。
目は開いているんですけど、見えないんです。 

師匠の整理整頓をしてる時も、片付けよりも今後の人生が真っ暗。

誰かに頼る事も、すがることもできません。

ここで思い出すのが、
「オレから仕事は、とにかく早くやれ!失敗しても、ミスをしても全部オレが謝ってやるから」
「お前はとにかくやれ!文句もあるだろう、納得がいかないこともあるだろう、でもな、オレが全部一緒に背負ってやる。だからやれ。」
ありがたいですね。

いろんな事を思い出して目を赤くしていると突然、副社長から電話が鳴り、

「今から来い」との事。 

(副社長)「事務所にある社長のカメラ、ひとつ持っていくか?」

(私)「はい。ありがとうございます。」

(副社長)「じゃ、明日な」 

この会話は今でも鮮明に覚えています。 

師匠の形見のカメラを眺めながら、今後どうするかを真剣に考えます。 

「よし、起業するか」 師匠の命日の翌日が、私の個人事業主のスタートとなりました。

さて、極貧生活のスタート

整理整頓しながら、開業の手続きをしました。

人生の選択肢を強制的に絞られないためにも、 自分の力で生きていけるようにしたかったからです。 

この力を持たないことは、ものすごいリスクだと感じたんです。 

「個人事業主はリスクが高すぎる」なんて散々言われましたけど、私からすると、やりたくもない仕事をしていく方がリスクでした。

その時点ではまだ
「何を撮りたいのか?」
「何をするべきなのか?」
「何が正解なのか?」 はわかりません。 

とりあえず、失敗しまくっても良いから、 色々なことをやって、色々なことを学んで、色々な世界を見て経験してから決めよう、と。 

この時に経験した仕事の一つが人物撮影。

まだネットが普及していなかったので、 新聞を読んでいたら 「人物撮影ならカメラ一つで自由に開業!」って書いてあったので、すぐに新聞の掲示板に影響される(ありがちですね) 

生活のために飲食店で月300時間くらいバイトもしていたので、休みの日だけ撮影をする状態でした。 

とにかく、この頃は超絶ビンボーです。

週6勤務で手取りは13万円。 

交通費も出なかったので、 節約のために徒歩で毎日往復2時間半かけて自宅から通っていました。 

自宅から行く道で「駒沢通り」という大きい道路のがあるんですが、この道はちょっと裏道に入ると真っ暗なんです。ヘトヘトだろうが雨の日だろうが歩きながら

「これ、いつか倒れるな・・・」っていつも思いながら通勤してました。 

それを見かねた飲食店のオーナーが 「引っ越し代を貸すから引っ越してきなよ」と言ってくれたのをきっかけに近所に引っ越すことに決めました。 

そして、毎月2万円を返済していたので、手取りは11万円に減りました(笑) 

東京は家賃が高いです。 なんと家賃は、7万円。

もちろん、住んだ家は超オンボロです。

間取りは4畳半で建物が歪んでいて、窓を開くことすらできません。

入口も草木が生い茂っていて、友達からつけられた名前は「暗闇の館」 

もちろん自由に遊ぶお金もありません。

食事に関しては、飲食店なので、まだ恵まれていました。

いや、ほぼこれが目当てでもありましたね。

タダメシほどありがたいものはありません。 

オーナーがお客さんを紹介してくれて、仕事後に撮影をしに行ったこともありました。

某有名劇場の楽屋での撮影です。その後も数年かけて、いろいろな仕事をしたり勉強をしてきました。 もちろんお金がないので、唯一の休みの日は古本屋で100円の本と缶コーヒーを買って公園で一日中読書をして過ごしたりしていました。 

と、まあこういう話だけするとなかなか悲惨な生活のようですが・・・ 自分の意思で選んだ選択だし、 そんなに苦痛とは感じていませんでした。

ようやくたどりついた答え

こんな生活を数年過ごしていくうちに、自分の中で「ある結論」が見えてきました。

それは、こういう考えです。

「やりたいことは変わるかも知れない」
「やりたいことでも環境が苦しければ嫌いになるかもしれない」
「やりたいことでも生活ができなければ続けられないかもしれない」

であれば・・・

仕事の成果や働き方を自由にコントロールする力を身につけるのが最強なんじゃないか? 

これが私の結論でした。

つまり「マーケティング」です。 これが私の人生を決めました

個人事業をスタートして5年目くらいですね。 

当時はまだコンサルタントや広告代理店ですら SEOなんて言葉を知っている人がほとんどいない時代でしたし。 

今みたいに無料情報なんてほとんどないので、お金を払って勉強するしかありません。 

この頃もビンボーでしたけど、なんとかお金を貯めて何万円もする教材を買ったり

広告会社の知人に教えてもらって勉強してました。 

マーケティングの力は間違いなく、人生の大きな資産になると確信していると思っていたからです。 

だから節約もしたし、貯金や遊びよりも、勉強への投資を優先しました。

その後、ある移動通信の代理店で働くことになります。 

いわゆる携帯電話屋さんです。

この時も生活は楽じゃありません。

アルバイト契約だったので税金を引いたら月の収入は20万円を切ります。 

貯金もぜんぜんありません。 

でも、私にとっては最高の環境でした。 

何と社長がマーケティングマニアでしたので、当時の日本で販売されていたマーケティング教材はほとんど事務所にあったからです。海外からの情報も仕入れまくっていました。
(日本のマーケティングはアメリカよりも10年遅れていると言われています) 

みんな、いつも23時くらいまで残って情報交換や勉強しあったりもしていました。 
スタッフの女の子は 毎日ヤニク・シルバー(アメリカの有名マーケッター)の音声を聞きながら通勤してましたね(笑)

そして、スタッフが少ないので、自分で積極的に学び自分で実践するしかありません。 

特に私の場合はそうでした。

というのも、私だけなんのスキルも知識も実績もほとんどなかったからです。

優秀なスタッフ3人 + 落ちこぼれの私

という関係です。

なのでとにかく必死でした。最初はほとんどが雑用です。 

依頼された仕事を全力で速攻で終わらせ「次の仕事ないですか?」っていつも聞いてました。 

そのおかげもあって(皆が良い人だったからのも大きいですが)

1ヶ月後くらいには私にもどんどんと重要な仕事を回されるようになります。

  • とにかく営業、セールスマーケティング
  • 一日30枚のチラシ、POP、プライスカードを作る
  • 店舗のホームページのSEOをする
  • 3ヶ月に1回には営業の講師をする
  • パートさんを30人も1人で管理する
  • 知識0なのに、なぜかネットショップを立ち上げる
  • 半年後には、毎月2,000万円以上のリスティング広告を運用する
  • Google マップへの画像更新や情報更新(今で言うMEO)

単に店舗で営業をするだけでなく、バリバリのプレイヤーとして自分で実際にマーケティングを実践してきたので、大変でしたけどすごい勢いで成長できました。 

今もこれはすごく大きな資産になっているので本当に感謝です。 

クレームの処理も大量にあったので精神的にも強くなれた気がします。

通信障害とか、初期不良とか私のせいじゃないのにって事めちゃくちゃ多いです。 

でも、社長は全て受け止めてくれて、いつもマーケティングの本を 「これ読みな」って渡してくれました。

確信したマーケティングの力

最初は 「マーケティングを勉強した方が良いんじゃないか?」って程度の推測だったんですけど、 段々とそれが確信になってきます。 

マーケティングの力はエグくて、会社も短期間で急成長をしました。 

私が入った時は、事務所は古いビルの2階だったんですけど
(面接のテーブルはダンボール)

その後は3年で2回もオフィス移転しました。 

社員も8人でしたが1年後には社員30名以上。

アルバイトやパートさんを含めれば80〜100人いました。

多分、今では3000名はいると思います。 

私たち初期メンバーもこの頃には管理職を任され一気に後輩や部下も増えました。 

私も当時は2万部のメルマガ執筆や営業講師、 ビジネスマナー講師などもしていたので、 他社のセミナーや勉強会などに行くと 「岩崎さんですか?」と声をかけられることも多くなってきました。
(私はこの状況はすごく嫌だったんですが) 

今ではこの会社は全国でグループ会社が複数あって、 通信業界ではそれなりに有名な会社にまで成長しています。 

たった数年ほど前にダンボールで面接をされた会社とは思えませんね(笑) 

でも、そんな短期間で一気に成長するくらいマーケティングのパワーはすごかったです。 

クライアントさんたちも、うちの会社がサポートをすることで数ヶ月で売上が数十倍になるなんてことも特に珍しくありませんでした。 

マーケティングの力は本当にえげつなかったですね。

ここで活用したマーケティングは、主に広告で、新聞折り込みチラシ、Googleマップ、リピーター、アップセルクロスセル、コピーライティング、営業トークなど。

また、メディアミックスなども多く活用しました。

本店がテレビCMを流せば、店頭のメインの場所に置き、手書きのPOPやポスターを貼って誘導する。

このくらいの事は当たり前にやっていました。

また、会社が大きくなるにつれて、販売代理店の獲得です。

その代理店にも、同じようなセールスができるように、接客販売セミナー、プライスカード、チラシ告知の書き方など様々な同業にセミナーを開催しました。

もちろん、ホームページ制作や顧客へのメールマガジンの発行、イベント開催など販売強化をしていきます。こういうことを体感していくうちに 「色々と回り道をしてきたけど、マーケティングを学ぶというのは間違った選択じゃなかったんだ。ビンボー時代を耐えたことが報われた」 

そんな気がしました。 

契約上はアルバイトで収入は低かったですし、貯金もあまりありません。 

それでも、将来への不安は一切なくなりました。 

お金が必要になったら何とか稼げばいいし、何か違うしたいことが見つかればそれをやればいい。 

マーケティングで「人生の選択肢を増やせる力」がついていくにつれ、自由度の幅も広がり不安がどんどんとなくなっていきました。 

安定は保証されていましたし、社長や仲間とも仲は良かったです。 

自分で言うのもなんですが、この頃はかなり信頼してもらえていたので自由にもやらせてもらえていました。だから、決定的な不満があったわけではありません。 

でも管理職よりももっと現場でやりたいという想いもありましたし、自分で自由にやりたくなったんですね。 

そこで通信系の営業コンサルティング会社設立。

飲食店やエステサロン、インド貿易の会社もそれぞれありますが、世界的な感染病の問題で今は休止しています。

パン屋さんに関しては、高級パン屋さんに変貌したので、プロジェクトから抜けました。

今はデパートに出店しています。

飲食店は、これはやりたいスタッフに任せています。

確か学生専門の居酒屋になっていると思います。

リラクゼーションサロンは、訪問営業に方針をシフト。

地域密着をしたいという事で、移転もしました。

エステサロンも、女性専門から一気に男性専門の脱毛サロンに変更しました。 

全て、まったく苦労がなかったわけじゃないですし、失敗も色々としてきています。 特に求人広告の時は、本当に悩みました。でも、人を行動させる告知を効果的にする事で無理なく集める事はできました。

ハプニングで、一度売上がほぼ0

でも、マーケティングを身につけているおかげで、不安はほとんどありませんでした。

「まあどうにかなるか」というくらいの感覚です。

そして、実際どうにでもなりました。 

そして、マーケティング力があることによってビジネスの幅が広がり、これまででは考えられなかった色々な経験をすることができています。 

有名マーケティング会社主催のコンサルタント養成講座の講師を依頼されたり・・・集客と広告についての講義、アートイベント金魚文化を守るためのイベントをやったり

ユニクロの看板広告制作や

情報番組のプロデューサーさんが担当したテレビショッピングのマーケティングを担当したり

番組で紹介する商材の説明動画を撮影したり

不動産会社の情報リサーチをしたりと、また以前だったら、絶対になかっただろう方たちとの出会いや経験もたくさんありました。

ファッションカメラマンのジゲンさんに招待いただいて参加した勉強会もすごかった。 

私の格好がデニムだったので入口でSPに止められました(笑 

平凡を好む自分には合わない世界だと実感。 

パリコレの仕事に誘われてパリに訪れた時。

パーティーの雰囲気が苦手なので早々に退散させていただきましたが(笑 仕事だけでなく人生トータルで楽しく生きることを目標としていますので、遊ぶことも犠牲にしません。 

もともと自然が好きなので、海や山には毎月行っています。

今は小さい子供がいるので、公園になっていますが、連休の時にはできるだけ遠出をするようにしています。

先日も、立山に行ってきましたが、子供は大喜びで山の散策を楽しんでいました。

ディズニーランドが大好きなので、毎月ディズニーホテルにも家族で泊まります。

親に毎年プレゼントをしたり、
旅行に連れて行ったり、
美味しいものを食べさせたり、
仕送りもできるようになりました。 

父親は相変わらず金魚屋なので、週に1回くらいは手伝いをしたりもしています。

売上を気にせず、働く時間を調整できるのは素晴らしい事ですよね。 

足腰が悪いので、金魚屋は1日の営業時間は3時間です。

地域に特化しているので、これで十分だったりします。

これは、自己満足かもしれませんけど、少しでも恩返しをできるようになったのは良かったと感じています。 

ただいずれにしろ、今の自分があるのは本当にマーケティングのおかげです。

マーケティングによって人生が激変しました

ビジネスもプライベートも自分が望む自由な選択ができるようになったからです。 

私は色々な業種のクライアントさんがいますが、その中でも特に写真家支援に力を注いでいるのには理由があります。 

一番の大きな理由は 自分の価値や魅力をお客さんに伝えられず、売上に困るだけでなくビジネスが苦痛になっている人が多い ということです。 

写真家は本来はコモデティビジネスではないはずです。 

コモデティとは「どこで買っても同じ」という意味。 

写真家はコモデティではなく、それぞれの「技術」「考え方」「想い」「情熱」「個性」があるはずです。 ところが世の中のほとんどの写真家は、価値や魅力をお客さんに伝えられていません。 

もちろん撮影をすれば伝えられますが、依頼する前にはわかりません。

だから、割引や値下げに頼らなくてはいけなくなります。 

激安を目当てにきたお客さんは「激安だから来た」お客さんです。

あなたの写真の価値や魅力をわかって来たお客さんではありません。 

当然、リピート率も単価も最初から低いことも確定です。 

本当に自分を必要としてくれているわけでもないし、利益にもならない。

これではやりがいを持てなくなるのも当然ですよね。

カメラマンを支援をする理由

【最安が正義で良いのだろうか?】

「どこにでもいる単に人物を撮ってくれる人」

「どこにでもいる単に料理を撮ってくれる人」

「どこにでもいる単に動物を撮ってくれる人」

「どこにでもいる単に建物を撮ってくれる人」 

こうやって、ひとくくりでコモディティにされたくはないと思います。 

これは私も同じです。 

私がなぜ、これほどメッセージを伝えることを大事にしているかというと、他のサービスやコンサルタントの方と同じに見られ、単に「売上を上げる人」とコモディティにされたくないからです。

あなたもきっとそうであるように、私にも私にしかできないこと想いや理念があります。 

「売上を上げてくれる人なんですね。じゃあお願いします」 

というだけの認識の人のお手伝いはしたくないのです。 

それはお互いが本当の意味で必要にしているわけではなく、必ずそこのズレが不幸になるからです。 

コモディティの世界では「最安が正義」です。 

どこでも同じだからです。 

これが起きているのがまさにカメラマンです。

どんなにカメラマンが増えようと、お客さんの数は同じように増えません。 

でも、本来はカメラマンほどお客さんとのコミュニケーションが深く 「どこでも同じ」とは思ってもらいたくない業界なはずです。 

だけど、現実はほとんどのお客さんにコモディティだと思われています。 

だから料金を下げて対抗しないといけないし、自分が求められているわけじゃない虚しさに耐えないといけません。 

私はもともと企業広告写真を撮っていました。

今の仕事はコンサルタントです。 

どれも「絶対に、コモディティとは思われたくない」ビジネス。 

だから、こういう苦しみやもどかしさがすごくわかるんですね。

せっかくやりがいや自由を求めてした起業のはず。

自由な時間も、お金もなく心も身体もヘトヘト。

そして好きだった仕事がつらくなってくる・・・ そんな経営者さんをたくさん見てきました。

「いわさき写真教室」を作った想い

私はマーケティングのおかげで人生が変わりました。 

撮りたいものはいつでも仲間たちと撮りにいけます。

山に行っても、海に行ってもみんな好き勝手に好きなものを撮っていますが、みんな笑顔です。 

だからカメラマンさんたちにも、この力を手に入れてもらいたく写真教室を作りました。 
(カメラの扱い方を教える写真教室もやっていました)

結局、写真っていうのは、憧れの人を見つけて、続けていれば誰でもできるようになれるけれど、「ビジネス」は教えてもらわないと誰でもできるようにはなれないんです。

だからこそ「お金」「時間」「心・体の自由」の自由な選択肢を増やす。 そして「理想のビジネスと理想の人生」の自分の力で作る

これが「いわさき写真教室」です。

写真の技術はもうすでに知っていると思います。
撮りたいものだってあると思います。

そして、お客さんから「ぜひ、あなたにお願いしたい」と言われたら、迷うことなくできますよね。

つまり、どうやって理想的なビジネスを自分の力で作ることができるか? 

そして、いわさき写真教室では多くの写真家さんたちが
「理想のビジネスと理想の人生」を手に入れてくれています。 

月商19万円→240万円以上に!

「仕事もプライベートも毎日が全体的に充実しています!」 1人の人物写真家→6年連続で最高売上記録の更新でトップクラスの規模と売上になりました

「週3日に休みを増やして好きな旅行たくさん行けるようになりました」 

月商3万円→140万円以上に!

「おにぎり一つ買うのも財布を気にしていましたが、岩崎さんの指導で世界が変わりました!」 起業5年でスタジオ3店舗。TVなどで取り上げられる有名スタジオに。

「ホームページからの来店が増え、今はお断りしてしまうことも増えました!」 
「売上、利用者数とも、開業以来最高となりました」
「新規集客のための広告費を一切かけていません。おかげで先が不安で途方にくれていた私が前向きに仕事できてます!」 

一人あたり1,000円以下の費用で全盛期の3倍の新規客数で土日は予約をお断りする状態に。

「岩崎さんは皆さんに自信を持ってオススメできます!」 

30人ほどの問い合わせがあり半分以上の予約を断るまでに。

「岩崎さんの仕事には、とても誠意を感じます!」 きれいごとに聞こえるかも知れませんが、 今でも私にとっての一番の報酬は生徒さんたちからの自由を手に入れたという報告です。 

京都のクライアントさんに「明日〇〇さん(別のクライアントさん)と会うんですけど飲みきませんか?」と誘われて二つ返事で京都まで新幹線で飲みに行った時。 

往復新幹線代+ホテル代を考えるとめちゃ高い飲み会ですけど、その何倍もの楽しさがありました。 

私があなたに願うこと

いわさき写真教室では、動画や音声で20時間以上、PDFで200ページ以上の講義を配布しています。

今も増やしてます。 

このメディアには、いわさき写真教室で提供していることの重要部分を厳選したものです。 

できるだけ限られた時間の中で、大事なことを伝えられるように、実は何度も何度もスライドを作り直しているし、撮影し直しているし、編集し直しています。

ただPV数は毎月6000位です。

「写真」「マーケティング」では2位にもなりました。

これを少ないと感じるかもしれませんが、その他大勢のアクセスではなく、私がコントロールしているアクセス数です。

それだけ、真剣にお伝えしたいことです。 

そして、あなたに知っていただきたいことであり、身につけていただきたいことであり、手に入れていただきたい力です。 

もちろんこの限られた時間だけで細かくすべてをお伝えすることは不可能なんですが、ベースとなる大事な部分は可能な限りお伝えしているので、ぜひ何度も見直していただけたらうれしいです。 

それでは長い時間、読んでくださりありがとうございました!

撮影経歴

1977年 東京生まれ、1997年 東京ビジュアルアーツ専門学校卒業後、有限会社ピアーズ代表の勝田敏照氏を師事、7年間のアシスタントを経て2004年 個人事務所設立。広告写真を得意とする。 

株式会社開通(貿易、貴石アクセサリーデザイン、製造、販売) ワイズメンコミュニケーションズ株式会社(番組制作) 株式会社ノキット(売却済み) スクエアシンクインターナショナル株式会社(各種撮影業、教育事業) イワサキ商店(創業60年金魚屋、小売業) 

2005年〜2020年

公益社団法人 日展、ヨドバシカメラ マルチメディア吉祥寺、アポロ理容美容専門学校、東京国際映画祭/文化庁映画週間、ホンダ技研工業、ボウリング革命 P☆LEAGUE、白金LEMAN、FENCEOFDEFENSE、株式会社榎本明雅堂 織物襖紙、ベースボールマガジン社 ボウリングマガジン、クエルボ・イ・ソブリノス、Rado Watch Co. Ltd.,、しゃぶしゃぶ すき焼き おんのじ、日本橋架橋100周年記念特別展アートアクアリウム展 ~江戸・金魚の涼~&ナイトアクアリウムミュージックラウンジ、SKY AQUARIUM IV、ダンロップ タイヤ、住友ゴム工業 スポーツ専用ロングパイル人工芝 ハイブリッドターフ、アートアクアリウム フォトブック 金魚の粋、DUO東京 フォルクスワーゲン、日本橋高島屋 いけばな池坊550年祭記念特別展 いけばなの根源 池坊展、旭化成せんい株式会社 旭化成せんいキャンペーンモデル、平塚競輪 カレンダー、銀座・地下商店街の映画館「シネパトス」、アートアクアリウム フォトブック 金魚の舞、高輪ヂーゼル株式会社 元気が出る朝礼、東北の美しい未来を考えるフォーラム、公益社団法人 東京ボウリング場協会、アクロスエンターテインメント 瞬間リアライズ、日・EUビジネス・ラウンドテーブル、ユニクロスタイリングシート、通信事業ヘルパー、アドバイザー事業設立、ライオン株式会社 全国小学生歯みがき大会、旭化成建材 ジーファスタイル 商品撮影、日本電気株式会社 NEC未来創造会議、日本電気株式会社 C&Cユーザーフォーラム&iEXPO、INSOU東日本株式会社 ワイン&バービーノワールなど他多数。